皆さん、こんにちは。
今年も1月17日を迎えました。
26年前のこの日、私にとって、一生忘れられない、出来事が起こりました。
そう、阪神・淡路大震災が発生した日です。
絶望と恐怖、何より焦燥感というものを初めて経験した出来事でした。
当時、私が住んでいた地域は、ライフラインの寸断はありましたが、建物が倒壊するほ
どの被害はありませんでした。
ただ、以前、記事にもしましたが、職を失い、仲間とも離れ離れになりました。
数十秒の揺れが、私たちの生活を一変させてしまいました。
阪神・淡路大震災 1.17
今年も行ってきました
数年前から、「追悼の集い」に参加しております。
前職の仲間から声を掛けてもらい、参加するようになったのですが、
今年はコロナの影響で、三宮の東遊園地には行かず、前の職場近くへ行ってきました。
元同僚とA先輩と3人で追悼の意を捧げて来ました。
コロナの影響もあってか今日は、人もまばらでしたが。
帰りに、少し3人で話をしましたが、3人3様の思いがあり、当時を振り返りました。
震災の怖さ
私は震災のあった日には、神戸の中心地に入り、生々しい風景を見ました。
映画ゴジラで、ゴジラが町中を破壊した後と一緒でした。
見慣れた街が、無残な姿に変貌していました。
良く出入りしていたビルが、傾いていました。
あったはずの、ビルの1階が無くなり、いつも通っていた道が瓦礫の下敷きになり、
私の知っている神戸の街では無かったです。
この大きな地震の怖さは、逃げる場所が無いということでしょうか。
避難所なんてものはありません。
避難訓練、避難マニュアルなんて一切通用しないと思いました。
だって、数十秒の揺れで、あの有様ですから、逃げることなんて出来ません。
避難経路なんて無くなっています。避難場所が倒壊していることも考えられます。
街のすべての機能を奪われ、情報が一切ないのですから、パニック以外ありません。
私は同僚と 前職の会社の倉庫で夜を過ごしました。
怖くて怖くて仕方なかったです。
思い出される、当たり前の生活。当たり前の享受。感謝など一片もない生活。
暖房の効いた部屋で、照明に照らされ、テレビを観ている。
温かいコーヒーを飲み、熱い風呂に入り、暖かい布団で眠る。
家族と何気ない会話、寂しくなれば、いつでも友人と電話で話す。
その夜には、何一つ当たり前が無かった。
有るのは、悲しみと恐怖と不安。
そして無限に広がる静けさと暗闇の世界。ただただ、暗闇の世界。
希望はいつでも傍にある
私は、今でも人に話すことがあります。
今回も先輩と同僚に話をしました。
避難所の学校で、初対面の方々から受けた親切と励ましの言葉です。
避難所に人を探しに訪れた時に、気付いたことがありました。
子供たちが、いつもの登校時と同じように、校庭で元気よく遊んでいました。
笑顔いっぱいで遊んでいました。
その風景を見て、不思議と笑顔になれました。
ある方は、私と同僚に声を掛けてくださいました。
「お兄ちゃん、パンがあるから食べな」
「いやいや、いいです」
「遠慮したらあかん。人を探してるんやったら、体力勝負や。がんばりや」
みんなが、「がんばろ」って言ってくれました。
自分たちが一番大変なのに「がんばろ」って言ってくれました。
見も知らない私たちに「がんばろ」って言ってくれました。
これほど励まされたことは無かったです。
こんな暖かく、力強い「がんばろ」は初めてでした。
気が付けば、私も皆さんに「がんばろ」と言い続けていました。
結局、人を励ますために訪れた避難所で、励まされて帰りました。
私の座右の銘
「泣くも笑うも自分次第、じゃあ笑って生きようよ」
は、この経験から来ています。
おわりに
昨年からのコロナ禍で、日本、いや世界は混沌としております。
奇しくも、昨年の1月16日にコロナウイルス感染者が初めて日本で確認されました。
地震とは、全く違う災害ではありますが、今の日本は逆境を迎えております。
でも、人は負けないと信じています。
あの震災を経て、今の自分がいます。
嫁さんと出会い、子供とめぐり逢いました。
今の会社に入社し、仲間と出会いました。
そして、皆さんとも出会えました。
良い事も辛い事も色々ありました。
悲観的に生きても、楽観的に生きても、明日は同じようにやって来ます。
だから、心は泣いていても、笑顔を絶やさず、過ごしてやろうと思っています。
「がんばろうKOBE」
あの震災後、この旗印のもと、希望を忘れずに、笑顔を絶やさず、必死に復興したきた
神戸。
次は、コロナに打ち勝つまで、みんな「がんばろ」ね。
こんな時だから、笑顔を忘れずにしたいです。